FOOLS GOLD  -4ページ目

デースケドガーに関する考察その2 著名人に聞く②




ハンフリーボガードに聞く


●カサブランカといえばこの人、
ボギーさんにインタビューしたいと思います。
やっぱり映画の撮影中はデースケドガーで遊んだのでしょうか?


「そんな昔のことは忘れたさ」


●あいかわらずシブイですね。
まさか今でも「As Time Goes By」をあなたは弾いていらっしゃるのでしょうか?


「そんな先のことは分からない」


●いえ、今の話しなのですけどが、、、、、
ところで満州式デースケドガーに挑戦しようと思っているのですがどう思いますか?


「今はよくても、きっと一生後悔する」


●お約束ありがとうございました。


第 2 回 SEO コンテスト (新潟・スマトラ頑張れ!!)

FOOLS GOLD〔デースケドガー〕 休載のお知らせ



思うところありまして、
ある程度5話分くらい書き溜めしてから掲載したいと思います。
そんなわけで、10日くらいお休みいたします。

せっかくSEOコンテスト順位も
6桁から3桁へジャンプアップし、
訪問者数も増えていたところ、
また下がってしまうのは残念です。
でも少しでもまともなものを書きたいので、
できれば気長に待っててください。

そしてまた僕の愚logを読んでいただけるとうれしいのでーす。


けどが。

第 2 回 SEO コンテスト (新潟・スマトラ頑張れ!!)

FOOLS GOLD[デースケドガー]8

 

 まだ頭がひどく痛んだ。後頭部に手をやるとカーゼが充てられていた。ご親切にも誰かが治療してくれたみたいだ。僕は頭を軽くさすりながら、自分の居場所を確認していった。
 自分はソファーに座っている。二人掛けの皮製のソファーだ。目の前にテーブルがあり、上には大理石でできた灰皿と卓上ライターがあった。灰皿には1箇所だけ不自然にどす黒くなっていたが、気にしないことにした。
 テーブルの向こう側には一人掛けのソファーが二つ。もちろん皮製だ。今は誰も座っていない。そのまた向こうに大きなマホガニー製の机があり、男が座っていた。こいつが親分だ。
 そして僕から見てその右側に男がたっている。ドスの男だ。ドス男は灰皿を見るような目で僕を見ていた。僕にあまり興味がないのだろう。僕も負けずに灰皿を見るような目で見返してやった。それでどうなるわけでもないけれど。
 親分の左側には女性が二人たっていた。チャカカーンとその友達だ。友達はこちらを楽しそうに眺め、チャカカーンは下を向いていた。
 僕が座っている左斜め後ろにこの部屋の入り口があるが、その前には正座をしている男がいて、その顔は紫色に腫れ上がって痛々しかった。誰かに大理石の灰皿でしこたま殴られるとああなるのだろう。Tシャツは血だらけだった。背格好から先ほどの男の子だろうと判断した。
 その正座をしている男の子の傍で、一人いかついボウズ頭が立っていた。親分以外でこいつだけ初顔だった。

 これで全員だった。登場人物が勢揃いした。ドスで刺されたオヤジがいないが、僕の知った事ではなかった。彼には彼の災厄があるように僕には僕の災厄があった。そしてまだましなことに僕は彼ではなかった。他に人はいなかった。金田一幸助が帽子を脱いで、「動かないで、この部屋に犯人がいます」とも言わなかった。犯人がわかりきっているこの世界では彼の存在価値は低い。僕にだってそれくらいの推理はできる。

 いかにもなヤクザの親分がいる、いかにもなヤクザの事務所だった。こんな事務所はもう「代紋TAKE2」とか哀川翔の映画で何べんも見てきた。翔さんがどこからかやって来て助けてくれることを期待したが、とりあえず無理そうだった。きっと忙しいのだろう。端から端までステレオタイプな事務所で、壁に毛筆で「仁義」とか「男樹」とか額縁が壁掛けしてあれば完璧だな、と思い部屋を見渡したらやっぱりあった。でも良く見るとちょっと違った。相田みつをだった。
 
 『相田みつをかよっ!』三村も忙しいだろうから、代わりに自分でつっこみを入れた。
 
 もちろん心のなかで。


つづく

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デースケドガーに関する考察その1 デースケドガーの歴史⑥

 


1931年
満州事変勃発

1933年
満州ハルビンにて旧日本陸軍731部隊(石井部隊)創設。     
建前上は感染病の予防・研究。実際には生物化学兵器の研究・開発機関。
実際に中国で細菌戦を行った。

1939年
同部隊本部 ピンファンに移転
部隊人数 2,600名
国立大学医学部・医科大学の優秀な医師・研究者及び民間の研究員であった。

1940年  
精神科医の一人がデースケドガーを使用したプレッシャーとストレスの関系性を調査する実験を発案。

~45年  
細菌実験により死亡した中国人        2,500名
デースケドガーにより死亡もしくは発狂した中国人250名
デースケドガーにより死亡もしくは発狂した日本人250名

1945年8月13日 
敗戦が濃厚となったため施設は全て破壊、残った捕虜は虐殺されたという。戦後石井らは、GHQと取引し細菌兵器とデースケドガーの資料を渡す代わりに東京裁判で戦犯追及を逃れた。

1947年  
占領軍の間で、発狂する隊員が複数出現。発生率の多さからMPが徹底的に調査したところ、隊員達の間で満州式のデースケドガーが流行していることが発覚。以後軍内部で全面禁止令がだされる。 

1948年
帝銀事件発生、使われた毒物と現場にトランプが落ちていたことから731部隊との関わりが考慮されたが、政治的圧力により捜査中断。その後画家が犯人とされたが冤罪の可能性が高い。


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FOOLS GOLD[デースケドガー]7

 

  声が聞こえた。水の中で聞く音みたいに何を喋っているのかよく聞きとれない。身体が揺れている。エンジン音みたいだ。頭がひどく痛む。車に乗っているのだろうか?身体は横たわっている。上下感覚がない。まだスイッチがうまく繋がらない。BNCプラグとRCAプラグを無理やり接続しようとしている。無理だ。あきらめよう。また気を失った。


 「おい。起きろ」
  誰かが何かを喋っている。
 「おい。起きろ。おい」
  誰かが何かを喋っている。
 「おい」
  誰かが何かを。誰だ?何だ?
 目を開けた。頭がひどく痛む。焦点があわない。歪んだ鏡を見ているようだ。子供の頃遊園地にあった鏡の家。迷路になっていて迷子になりそうだった。出口の近く、歪んだ鏡があり、実際より大分痩せて見えたり、太って見えたり、波打って見えたり。鏡の家。なぜそんなモノを連想したのか。そんな存在を意識したのは小学生以来だ。記憶の繋がりがおかしい。頭がひどく痛む。
 「いきなりで悪かったな」目の前の大きな机の向こう側から声がした。
 「判るか?」
  僕は首を振った。「水」一番必要なもの言葉にした。誰かがテーブルの上に無言でグラスを置いた。おまたせしました、とは言ってくれなかった。どうでもいいことだけれども。僕はグラスに入った水を一気飲みした。やっと意識が身体とかろうじて繋がったみたいだ。BNCはBNCへ、RCAはRCAへ。映像信号がスルーアウトし、目に見えている光景がそのままの形で頭の中の像となった。
 「気分は?」
  朝の4時に部屋長から無理やりたたき起こされた全寮制の中学生の気分だ。いささか長い比喩を使って相手にそういった。
  話しかけた相手は、笑ってくれた。いかにもヤクザの親分な笑い方だった。きっと歯を磨く時もヤクザの親分な磨き方をするのだろう。要するに見るからにやくざの親分だった。もちろんその推理は当たっていた。ここはやくざの事務所だ。
  時計を見た。長針も短針も真上を指していた。昼か夜かわからない。たぶん昼の12:00だろう。殴られてから大分時間が経った気がする。時間を確認するためポケットから携帯を取り出した。0:00だった。気を失っていたのは1時間たらずだった。


  それが、1時間前の僕。


つづく

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デースケドガー旅行記1

 


これはデースケドガー政府観光局から募集された旅行記への投稿です。ここで書かれている僕はFOOLS GOLDの僕とは基本的に同一人物ではありません。

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昨年の夏、僕の身に起きた事について書こうと思う。今となっては3万年前の話みたいだ。


デースケドガーに単身旅行に来て1週間が過ぎた。こんな観光地に一人で旅行に来るなんて僕くらいであろう。事実毎朝黒服に「お連れ様はいつおいでになるのですか?」と聞かれる。その度、僕は適当に答えていた。
僕はこの一週間どこの観光スポットも廻らなかった。あたりまえだ。一人で観光地めぐりをするやつはいない。一緒に廻る予定だった相手はどこか他の男と家を出て行ってしまった。旅行の1週間前に。
朝、カフェでモーニングを食べ、午前中はホテルのプールでひたすら泳ぐ。そして午後は部屋で本を読み、夜は近くのバーで眠くなるまで酒を飲んだ。ホテルにもバーはあるが、外へ出た。ホテルにずっと居過ぎると逆に変な眼で見られるから。
会社には前もって2週間の長期休暇を貰っていた。キャンセルしてもよかったのだが、妻が行きたがっていたデースケドガーだったので、一人で傷心旅行をすることにした。ささやかな復讐のつもりかもしれない。


デースケドガーに来て一週間、毎日晴れている。おかげさまで、僕は小麦色に日焼けした。今日も午前中はプールで1km泳いだ。幾分気になり始めた腹も、こころなしか引き締まってきた気がする。悪くない。気分が落ち込んでいる時はせめて外見を健康的にみせるのが大事。僕の持論だ。


部屋の窓からは、眼下にプール、そして南国特有の樹木とその先に浜辺が少しと海が見える。ここから景色を眺めていると御伽の国に来たみたいだ。


女の子がプールサイドを歩いていた。北欧かどこかの娘だろうと僕は踏んだ。透き通るような肌の白さだ。この高い窓から眺めてもそれは息を呑むほどの素晴らしいからだだった。トップアスリートが持つ緊張感がそこにはあった。水泳の選手かもしれない。プールにいるのは彼女一人だけみたいだった。


突然、彼女が倒れた。ゆっくりとスローモーションのように。
そして倒れたまま動かなくなった。


僕はとてつもなく喉が渇き、冷蔵庫からビールを取り出した。
一口飲んだだけで、サイに体当たりをくらったみたいに、睡魔が襲ってきた。
僕は、故障した電話器のように、うらぶれた路地に見捨てられた三輪車のように、深く深く眠りについた。


いやな夢をみた。仕事から帰宅すると誰もいない。テーブルの上に置手紙がある。あなたと一緒にいるのは疲れました。などなど。問題は現実でも同じことが僕の身に起きたことだった。眼を覚ますとあたりは夕暮れになっていた。寝汗をかいたのでシャワーを浴びた。


バスから出ると、窓から景色をみた。そこにはチョークであの娘の体がいたずら書きみたいに象られていた。


間違っている。チョークで書かれたそれはまるで出来の悪いキースヘリングみたいだった。違う。彼女は街を歩けば、誰もが振り返り、口笛を吹くような素敵な娘だったんだ。そんなはずない。


僕がどんなに叫んでも、誰も聞いてくれない。地球は廻り続ける。僕はそんなさまをここから手をこまねいてただ眺めているだけだ。


この高い窓から。



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FOOLS GOLD[デースケドガー]6

 

 夜の11時といってもここは新宿の繁華街、通りに人が多くてもよさそうなものだが、なぜか今日は人影がまばらであった。新宿2丁目はさして高いビルもなくネオンもどことなく煤けた印象だ。ここは今でも昭和の世界だった。
 僕らは前の二人とちょうど路地の間隔を保ちながら、尾行していた。途中で年上の男が若い方の肩に腕を廻し、軽くキスをした。尾行を始めてから、僕の鼓動は大分早くなっているようだ。これは隣で魅力的な女の子(というような年齢ではないだろうけど)と腕を組んでいるからというよりも、やはり探偵の真似事をしている気分の高揚からくるものだろう。子供の頃、かくれんぼをすると、必ずなぜか下腹がもやもやした気分に似ている気がした。
 「なんだかドキドキするわね。」
 彼女も少し興奮している様子だ。

 15M程前を歩いていた二人が左へ曲がったので、僕らは心持ち早歩きになり、追いかけた。角を曲がる瞬間、くぐもった音が聞こえた気がした。僕らは、わざとらしくならならよう気をつけながら、おそるおそる角を曲がった。

 男が一人道端に倒れていた。側には二人男が立っていて、一人は何か光るものを手に持っていた。ドスだった。前を歩いていた若い方の男が、蒼白になりながら眼を見開いて倒れた男を見つめていた。あたりの音は消え、時間の感覚が無くなってしまったようだ。一瞬の出来事だとは思うが、僕ら二人は立ち止まったまま若い男とドスを持って立ちすくむ男を見つめ、その二人は倒れている男を見つめていた。誰も声を出さなかった。倒れている男の周りにじわじわと黒いものが広がっていった。ドスを持った男が顔を上げ僕らの方をみた。初めて見る顔だ。ということは倒れている男は若い男と一緒に歩いていた男なのだろう。その男は僕と目が合うと、何度も同じ間違いを犯す生徒を諭す小学校の先生みたいに、悲しそうなどこかやりきれない顔をして微妙に首を振った。背中にいやな汗が流れた。
 逃げようと思い、振り返った瞬間、脇腹に激痛が走った。バットかなにか長いもので殴られたのだろう。前から振り下ろされたので、ドス野郎とは別の男だ。体をくの字に曲げて脇腹を手で押されると、次は後頭部を殴られた。前に倒れる瞬間、男の靴が見えた。それが記憶に残る最後だった。僕は気を失った。

つづく
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デースケドガーに関する考察その1 デースケドガーの歴史⑤

 

カサブランカで発祥したデースケドガーは、18世紀までに除々に世界中に浸透していった。18世紀中頃になると、英国で起きた産業革命が世界中で席巻するにつれて、デースケドガーも爆発的に広まった。特にアメリカでは、このゲームの心理戦の部分が風土に合っていたのか、ポーカーと並ぶ人気カードゲームとなった。アメリカの多民族国家ゆえの精神的同一感の希薄さ、または国家としての歴史の無さがその主な要因と思われる。アメリカ人はアメリカ人としてのアイデンティティを確立するために、デースケドガーに興じたのだ。

日本人で始めてこのゲームに興じたのは、後に立憲改進党の党首そして東京専門学校(早稲田大学)の創始者である大隈重信であった。大隈は、学生時代長崎にて遊学中、アメリカ人宣教師フルベッキのもとで、英語やオランダ憲法そしてアメリカ独立宣言を学んだ。生来の政治家体質を持つ大隈は、単なる学問のみならず、人間関係の掌握術を会得しようと、貪欲に知識や習慣というものを学んだ。デースケドガーもその一つである。デースケドガーのルールを教わった大隈はフルベッキと勉強の合間に興じたという。最初はこつが掴めず大抵負けていたが、文久元年弘道館の教授となるとともにうまくなり、その頃にはフルベッキも歯が立たなくなっていた。明治元年外国事務局判事となり、イギリス人公使パークスと論争して大隈は名を上げたが、実はディベートではなく、デースケドガーで決着をつけたことはあまり知られていない。

その後大隈は政界の中心人物の一人となっていき、それにつれてデースケドガーも日本で流行していった。大隈が日本にもたらした最大の貢献はこのカードゲームを広めたことかもしれない。晩年大隈はこう語ったという。
「俺はお札になるだろうか?福沢の野郎は人気者だからなるかも知れんな。ちきしょう『天は、、、』なんて名セリフはきやがって。それから元号も『慶応』『明治』『大正』『昭和』とくれば大学名シリーズで当然次は『早稲田』だよな。なあ小渕。そうだろ?えっ?違うの?本当かよ。まいるぜ。まあいいや。少なくとも俺にはデースケドガーがあるさ。いつか流行語大賞もらえるだろ」

[参考文献 「小説 大隈重信」民明書房館]



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FOOLS GOLD[デースケドガー]5

 


 それから僕らは出会ったばかり男と女がするたわいもない会話をつづけた。どこからきたの?なにしているの?うんぬん。ここらへんの会話で脈があるかどうかは大抵察しがつく。内容よりも、答え方とか微笑む回数とかタバコを持つ手の位置だとかほくろの位置だとかで。その点彼女の態度は良好だった。ただファッションがちょっとけばいのが気になったけれども。(実際彼女はキャバ嬢だった。いまどきのキャバ嬢はたいてい私服がそれっぽくないのに。)

 彼女はたばこを吸い終わると、僕にガムを持っているかと尋ねた。
 「ないよ。でも欲しいなら一緒に買いに行こう」
 「でも一度店から出たら入れるかしら」
 「大丈夫。また一杯注文すればいいだけだから。」
 「そうね」
 彼女は自分の友達の方を一瞥して答えた。友達は楽しそうに隣なりの男と歓談していた。

 外に出ると夏の匂いがした。彼女のヒールが高いのに気付く。くちびるがふっくらとしている。口元にほくろがある。髪型はフラッパーというのだろうか。上条淳士の「SEX」でモデルの女の子と同じ髪型だ。そして胸が大きい。歩き出すと彼女は僕の腕をとった。

 コンビニの中に入ると少し違和感を持ち、どこか普通でない気がしたが、その理由はすぐに理解した。お店の中には僕らとレジ係り以外に5人客がいて、その内3人は立ち読みをしていた。普通のよくあるコンビニの一風景だけれども、違うのは3人とも読んでいる本が少年ジャンプではなく「サブ」だったことだ。そして残りの二人は30代の男とどうみても中学生くらいの男の子のカップルであった。僕らは腕を組んでいたが、彼たちは手を繋ぎ仲睦まじくしていた。さすが2丁目だな、と感心した。彼女も同じことを感じているようだった。

 「ねえ。あとつけましょうよ」
 小声でサブカップルをアゴで指し示しながら僕にささやいた。
 僕は正直なところ、そんな下世話なことはしたくなかったが、
 ①折り角いい展開のところ、彼女の気持ちを折るようなことはしたくない。
 ②たしかに、面白いかもしれない。
 ③当然ホテル街に行くだろうから、彼女を誘いやすいかも。
 ④もしかしたら最初から彼女はその気で、その提案をしたのかも。『あとはあなたが一押しすればいいだけよ』と。
 僕は①から④まで0.1秒で論旨の展開をし、その解釈を採用した。
 つまり微笑みながら「いいね」と答えた。

 「ところで、自己紹介がまだだったね」僕は言った。
 「俺の名前は濱 マイク」もちろん冗談だ。
 彼女は微笑みながら言った
 「私の名前はチャカカーン」
 心臓の音が1オクターブ高くなった。なんで僕の彼女に対する第一印象がわかったのだろう?
 見透かされている気がした。

 出会って30分だ。

 
 つづく


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デースケドガーに関する考察その3 世界分布図と東京アンダーグラウンド

 

19世紀末から20世紀初頭にかけてデースケドガーは世界中に広がり、世界のカジノで最も愛されるゲームとなった。ここ日本でも、キングオブカードゲームのバカラと、古来日本の博徒に一番愛されてきた「手本引き」を合わせたようなゲームは大変に人気がでた。
しかし、第2次世界大戦前にナチスドイツと日本の満州における軍部がデースケドガーを利用し、権力を拡大していった負の歴史よりデースケドガーは戦後急速に廃れることとなった。今、アメリカとヨーロッパのカジノでこのゲームをできることはまずない。今では、発祥の地であるカサブランカなどの北アフリカの街と中東の国々だけである。そして東京の裏カジノ。君や僕では簡単に入れないVIP級の会員制カジノだ。
デースケドガーは本来駆け引きを駆使した陽気なゲームであった。そこに今ある残虐性を吹き込んだのは日本人である。日中戦争時に軍部は、このゲームを元に様々な実験を行った。デースケドガーを題材にすることで、人間は色々な思考体系、駆け引き、哀願、そして諦めを表明する。その緊急時の思考体系を理論として構築すべく旧日本軍は実験を重ねた。その実験によって多くの中国人が発狂し、あるいは死に至った。(そして日本人も。実際にこの実験でほぼ同人数の日本人が亡くなっている。)

東京アンダーグラウンドで繰り広げられる世界は、表に生活の基盤を置く普通の人々にとっては、時に不可思議に思える。カードゲームに大金を賭ける。これは理解できないわけでもない。カードゲームに精神と生命を賭ける。これは理解できない。だが実際にそこでは日々精神や命をすり減らしている人々がいるのである。そのヒリヒリとした賭場の空気に逝かれた男たちが。

そして時には女も。


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